法隆寺
法隆寺は、姫路城や屋久島、白神山地とならび、日本の世界遺産第一号である。世界最古の木造建築があり、そして建物が美しく後世の建築に大きな影響を与え、日本仏教史でも重要な役割を果たしたこれが世界遺産に登録された理由だ。
貴重な建築もさることながら、ここは日本が誇る仏教美術の宝庫でもある。仏教彫刻だけで、なんと650体もあるのだ。その中でも一押しなのが観音菩薩立像、いわゆる百済観音だ。2mを超える像高で、なんともうらやましい細みの8頭身スタイル。優雅なボディラインに、しなやかな指先。それだけでも人々を魅了するには十分だが、この観音様。とてもなぞ多きお方。いつから日本の世界遺産である法隆寺にあるのか寺に記録がなく、国産か伝来物か、どこにルーツがあるのかなども、今もって不明である。法隆寺には他にも、なぞの寺宝が多い。金堂の釈迦如来が浮かべる、アルカイック・スマイルと呼ばれる謎の微笑。この仏像を作った止利仏師も、名前は広く知られていても、その招待は不明だ。さらに、玉虫厨子もどこでつくられ、何が収められていたのかもわからない。これら超有名な寺宝にまつわる、さまざまな謎。だからこそ、よりいっそうひきつけられる。
法隆寺には「世界中どこを見渡しても、これ以上古い本の建物はない」という建物が10棟ある。金堂、五重塔、中門、回廊、経蔵、東室、食堂、東大門、夢殿、伝法堂である。完成後1300年以上を経た木造建築が、朽ちかけるわけでもなく、今も造られた当時と同じ美しい姿で建つ。これをやってのけたのが、飛鳥時代の工人たち。
硬い地盤の場所を選び、耐用年数の長いヒノキを木材に選び、そのうえで匠の知恵と技術を集結させた建物。それが法隆寺だ。
江戸時代頃より法隆寺に伝わる七不思議の中には、「クモが建物に巣を張らない」、「スズメがフンをしない」というのがある。
悠久の時を超えて、どこまでもスマートにそびえる五重塔や金堂を眺めていると、クモやスズメが遠慮するのも当然だろうという気になってくる。
百済観音堂
東西に分かれた大宝蔵院の中心となる建物で、百済観音専用のお堂。左右の建物とは渡り廊下でつながっている
参上御堂
鎌倉時代に再建された建物で、平安時代の釈迦三尊像と室町時代の四天王像を安置する。毎年11月1~3日に公開
西円堂
藤原不比等の発願で建設され、鎌倉時代に再建された。日本最大級の乾漆像といわれる尊薬師如来座像を安置する
綱封蔵
奈良時代の宝物庫で、大宝蔵院完成以前に寺宝が納められていた。法隆寺にはかつてこのような建物が33棟あった
食堂
創建時の寺務所が、平安期に僧の食事の場に。南側の相殺と軒を接して建つ双堂と呼ばれる建築様式は、奈良時代のもの
大宝蔵院
1998年完成の宝物館。東西に分かれた建物で、百済観音像や玉虫厨子など、日本を代表する宝物を多数展示する
夢殿
聖徳太子を供養するために739(天平11)年に建てられたハ角円堂。中央の厨子に、聖徳太子等身と伝える飛鳥時代の秘仏救世観音像、聖観音菩薩像などを安置する
大講堂
法隆寺最大の建物。僧が仏教を学ぷ場で、法要を行う施設でもある。落雷によって焼失し、990(正暦元)年に再建された。薬師三尊像および四天王像を安置する
鐘楼
大講堂とともに落雷で焼失し、経蔵と同じ様式で平安時代に再建された。現在は年中行事のときのみ撞かれる。正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の鐘である
東室
西室と対になる建物で、法隆寺に住む憎が生活していた僧房。奈良時代には大房と呼ばれ、東室の東側にある小子房と呼ばれる妻室には、従者が寝泊まりしていた
伝法堂
聖武天皇夫人の住宅を仏堂に改造したもの。通常、仏堂には床を敷かないが、この建物は床が板張りとなっている。三組の阿弥陀三尊像ほか多くの仏像を安置する
五重塔
日本最古の五重塔で、釈迦の遺骨を奉安。総高は約32.6m。初層内4面には、釈迦入寂の場面などの仏教伝説を表す塑像群が。非公開だが、扉の格子戸の隙間から垣間見える
聖霊院
聖徳太子の尊像を安置するため、鎌倉時代に束室の南端部を改造して建設。内部には三つの厨子があり、中央の厨子に秘仏である聖徳太子45歳の像を安置する
金堂
法隆寺の本尊、釈迦三尊像を安置。法隆寺最古の建築で、田崩しの高欄、屋根を支える雲形の組物などは飛鳥時代特有のもの。唐以前の中国建築の影響が見られる
中門
西院伽藍の人口。深く覆いかぶさった軒、胴の中央がわずかに膨らんだエンタシスの柱などは、飛鳥建築の粋を集めたもの。左右の金剛力士像も日本最古
回廊
金堂と五重塔の大きさが違うため、境内の広さの視覚的なバランスを保つべく、中門の西側より東側のほうが長い。緩いラインを描く梁に飛鳥の匠の美意識が見える
三経院
聖徳太子が勝鬘経一雄摩経・法華経の三つの経典を注釈したことちなんで、西室の南端部を改造して鎌倉時代に建設。現在も三経の講義が行われる
経蔵
以前は経典を納めていたが、現在は、百済の学僧で日本に天文や地理学を伝えた観勒僧正像を安置。法隆寺が再建できるほどの財宝が納められているという伝承もある
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2008年12月29日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
平城宮跡
日本の世界遺産である平城宮跡はとにかく広い。その広さ、東京ドーム約26個分。敷地内の南北を車道が縦断し、東西を近鉄線が横切る。
敷地内はいつでも自由に散策できるが、やみくもに歩き回るのは効率が悪いので、平城宮跡資料館、遺構展示館、朱雀門などを起点・目的地にして散策するのがよい。
この場所を訪れた多くの観光客が抱くという「何にもない」という印象は、ある意味では正しい。一見、ただの広大な原っぱなのである。復元されているのは、平城宮の表玄関であった朱雀門、東院庭園、宮内省の建物といったわずかなもの。
けれども、ここは遺構。見るべきものはむしろ、いまだ地中深く埋もれているのだ。
そして何かが発見されるたびに、日本の歴史がまた一つ明らかになっていく。
見どころが多くない遺構だからこそ、ここでは散策をしながら思いを巡らせたい。1300年の昔、この場所には天皇かおり、日本の未来を担う10万もの人々が働いていたのだ。この平城京を舞台として天平文化が花開き、その粋を集めて作られたものの多くが世界的に価値を認められ、「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録されている。平城宮跡とはいわば、奈良の世界遺産を生んだ親のようなものかもしれない。
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2008年12月29日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
春日大社
日本の世界遺産に登録されている春日大社。その奈良公園といえば鹿。この鹿とゆかりの深いのが春日大社だ。春日大社は、奈良時代に平城京鎮護のため、常陸国から鹿島神を勧請したことに始まる、このとき鹿島神が白鹿に乗ってこられた。春日大社にとって、鹿は神の遣い。以来、一帯では鹿が大切にされるようになったのだ。
通常の神社では、社殿は更地に建てる場合が多い。ところがここでは整地をせず、山の斜面に溶け込むかのように社殿が建つ。回廊さえ斜面に建つため、「回廊をのぽりおりする」という、普通の神社ではめったにないことが起こるのだ。これは、。神住まう土地に手は加えないという、人々の心の現われ。その結果、建物に工夫が見られ、特に先生が目をこらしたのが、境内を入って右手の回廊の屋根である。
角に行くにしたがい、屋根を支える垂木が、屋根のカーーブと地面の傾斜とのバランスを取るかのように微妙にねじれ、断面も形を変えていく。なんでもこの技法、解明に半年もかかったとか。
太古の技、ぜひ自分の目で確認されたし。
春日大社の祭神、鹿島神が降臨したといわれる春日出は神聖なるものとして、千年以上もの間、手厚く保護されてきた。同時にこの山は、僧侶にとっては自然信仰に基づく山岳修行の場でもあった。森林内には、その名残である石仏や石窟仏が点在する。狩猟伐採禁止というお触れを忠実に守ってきた人々の信仰心の強さが、改めて感じられる。
近鉄奈良駅から散策をはじめ、興福寺や東大寺を見学して春日大社にたどりつけば、そこはもう春日山の麓。山中は現在も神域で立ち入り禁止だが、遊歩道が完備されている場所では、ぜひ散策したい。
春日山の花山と御蓋山の2峰からなる一帯。841年(承和8)年に狩猟や伐木が禁止された。以来、自然信仰や春日信仰と結びついて聖域となり、手付かずの自然が守られてきた。約800種の植物や60種の鳥類などが生息し、1956(昭和31)年に特別天然記念物に指定された。
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2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
元興寺
日本の世界遺産に登録されている元興寺は住宅地の一角に建つ。極楽堂と禅室の、2棟の建物が建つだけの小さな寺である。「極楽坊」と呼ばれるこの小寺が世界遺産に登録された大きな理由は、奈良時代の官大寺の僧房遺構であるため。日本最古といわれる瓦を屋根に敷く建物だ。
平安期、廃れゆく元興寺で、僧房だった極楽坊が独立して寺になるほど信仰を集め、寺名を今に引き継いだ。その原因となったのが、極楽坊の本尊の「智光曼荼羅」だ。
奈良時代の僧、智光が、没した同僚の礼光と浄土世界に行く夢を見て、その光景を絵師に描かせたもの。智光、礼光の二人も登場するこの曼荼羅は、平安末期の末法思想や阿弥陀信仰の流行を背景に、庶民の絶大なる信仰を集めた。現在、智光曼荼羅は浄土三曼荼羅のIつとされ、元興寺は「智光
さんと礼光さんのお寺」である。
元興寺が庶民の信仰を集めたことは、収蔵庫をのぞけばわかる。展示されているのは、おびただしい数の庶民信仰資料。そういえばこの寺は、四方を民家に囲まれている。現在も庶民が寄り添う寺なのだ。
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2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
興福寺
日本の世界遺産に登録されている奈良のお寺である興福寺の国宝館の中八部衆立像の一つ、阿修羅像。いまやすっかり、写真やポスターなどでもおなじみの仏像だ。
興福寺は、奈良時代から平安時代にかけて勢力を誇った。藤原氏の氏寺であり、一時は官寺の東大寺と肩を並べるほどの大寺院だった。けれど、時代の波には逆らえずに衰退の道を歩み、現在は五重塔や東金堂など世界遺産に登録されたわずかな建造物が、当時の輝きを今に伝えている。
そんな日本の世界遺産である興福寺にあって、輝きを放つもう一つの場所が国宝館だ。この寺は、日本有数の文化財の宝庫。所有する国宝と重要文化財は、約90点を数える。そして、館内に展示された数多くの文化財の中で、ダントツの人気を誇るのが阿修羅像である。
凛々しく、憂いを帯びたその表情は、たしかに「阿修羅」という激しい名前にはそぐわない。身長153・4cmの体も荒々しい戦闘神とは思えぬほどなよなか。
それでも、その立ち姿は、興福寺が大寺院だったころの誇りを決して忘れないかのように、気高い。
かつては、藤原一門の氏寺という格式を誇った興福寺。現在は、門もなければ塀もなく、いくつもの場所から境内に自由に入れることができ、奈良公園と一体化したような開放的な雰囲気にあふれている。境内に足を一歩踏み入れれば、あちこちで鹿がお出迎え。世界遺産に登録された国宝建造物が何棟も建ち並んでいるにもかかわらず、夜中でも境内の散策が可能で、五重塔越しに満月を眺める、なんてこともできるのだ。
現在、興福寺では境内中央に楷が設置され、中金堂の2010年再建など、境内復興整備計画が進められている。いつかきっと、かつての栄華をほうふつさせるような、極彩色に彩られた壮麗な伽藍が蘇るだろう。
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2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
東大寺
日本の世界遺産である東大寺の入り口の南大門からして圧倒的な迫力。高さ25mで日本最大級の門である。その先にそびえる大仏殿が、また巨大。幅57m、奥行き50m、高さ48mで現存する木造建築では世界最大級。世界遺産として価値を認められた、大仏様という建築様式だ。創建時は幅が88mもあったというから、恐れ入る。もちろん、中に鎮座する像高約15mの仏像も、世界最大の金銅仏。この寺のご本尊である。
京都の寺院とは、まったく異なる力強さ。日本が国家としてようやく歩み始めた奈良時代の人々の、「国を造る」というパワーが、東大寺にはみなぎっている。
そんな思いで大仏を見上げていると、大仏殿の一角で笑い声が。一本の柱の根元に、大仏の鼻の穴と同じ大きさの穴が開いており、人々がくぐりぬけを楽しんでいる。くぐりぬけが成功するたび、みんなで拍手。なごやかな光景だが、よく考えればここはお寺で一番神聖な本堂。そんな場所で笑い声が許されているなんて、日本一でかいご本尊は、懐のでかさも日本一なのだ。
建物が大きいだけでなく、敷地面積も広い東大寺。愉界的な遺産として価値あり、と認められた建造物が、大仏殿を中心に境内の広範囲にわたって点在する。
その中で、山下先生が強く見学を勧めるのが、境内東にある法華堂(三月堂)と、ほぼ正反対の西にある戒壇堂だ。法華堂には天平・鎌倉時代の16体の仏像が、戒壇堂には多宝塔と四天王立像が安置されている。特に、法華堂の本尊である不空扁索観音立像と、戒壇堂の四天王立像は、どれも写真などではおなじみの天平仏で、先生いわく「天平の有名タレント」。天平文化の傑作といわれている。
「写真ではライティングなどで。化粧・をしているけど、お堂の中ではスッピンの彼らが見られるよ」
2008年12月28日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
唐招提寺
日本の世界遺産に登録されている唐招提寺の奈良時代の金堂としては唯一この国に残る、世界遺産にふさわしい貴重な天平建築だ。2000年に始まった「平成の大修理」も、大詰め。
今まで建物を覆っていた無粋な覆い屋も取り除かれ、8年ぶりにその威容を現した。
井上靖の名作『天平の蔓』は、唐の高僧鑑真と、彼の招聘に命をかけた日本の留学僧たちを描いた大河ドラマ。失明という苦難にあいながら日本を目指し、仏牧者が守るべき戒律を初めて伝えた鑑真の功績は大きい。その鑑真が住んでいたのが唐招提寺であり、作中に「天平の蔓」として登場するのが、金堂屋根に取り付けられた鴎尾だ。
現在、その鵠尾は新宝蔵で展示されている。
金堂の完成に伴い、今まで別の場所で保管されていた本尊の盧舎那仏坐像、千手観音立像、薬師如来立像の三尊も戻ってきた。
金堂の落成を祝う落慶法要は、2009年H月。今から公開が待ち遠しい「古都奈良の文化財」に含まれるほかの寺とは異なり、境内に緑があふれる唐招提寺。ここは寺というより、昔も今も「鑑真さんのお住まい」である。
中国が誇る名僧でありながら、晩年を異国の地で送ると決めた鑑真。そんな鑑真は多くの弟子に慕われ、厳しい戒律の道場にもかかわらず、この寺には常に温かい空気が流れていた。開山堂を囲む土塀を眺めて、山ド先生が目を絹める。「きれいではないけれど、人々とお坊さんたちが一緒に作った感じがするよね」
そんな感想を抱いたのも、この寺に流れる空気を感じ取ったからにちがいない。
2008年12月22日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
薬師寺
日本の世界遺産に登録されている薬師寺は奈良のお寺です。戦後だけみても薬師寺の変化は著しい。1966年収蔵本、72年お写経道場、76年金堂、81年西塔、84年中門、91年玄奘三蔵院伽藍、2003年夫講堂が再建され、その問に回廊も復興されている。しかも資金は、一般の人々からの写経永代供養料のみ。
台風や地震で荒れていた薬師寺を復興したのは、先々代の菅生、高田好胤。檀家をもたない薬師寺の復興に「お写経勧進」を思いつき、日本全国行脚を始めた。一文字一文字心をこめて写経することは、仏像を刻むのと同じこと。本来もつ清浄な心を写経によって取り戻す、と解き、それを求めた宗派を問わない人々の思いが集まったのだ。68年に始まった写経勧進は8年で百万巻、10億円に達し、金堂の再建に当てられた。現在も写経勧進は続いている。
今見る薬師寺は、まさに、国民が建てた伽藍なのである。建設にあたったのは、最後の宮大工といわれる西岡常一。「コンクリートは300年しかもたないが、木は千年もつ」と木材での再建にこだわった。
「修学旅行での高田好胤さんの説法はホント、面白かったよね。これぞ本来のお寺さんのあり方だ」。山下先生も大いに納得。
薬師寺を回るとき、心したいのが、由緒あるお寺だからと言って、自分勝手に敷居を上げないこと。薬師三尊を金堂の外の灯龍前からかかんでみることを教えてくれたのは、ほかならぬお寺の方。
仏像もしかり。薬師寺には、奈良白鳳時代の仏像が多く、いずれも国宝。それに加え、近年造られた仏像も多い。「その中には、直接、手で触れられる仏様もいます」。
まさにお寺の思いやりの賜物なのだ。その仏様は、人講堂にある釈迦十人弟子像。
お釈迦様のお弟子たちと握手ができる唯一の場所。お写経勧進の人々への恩返し、ありかたくちょうだいしたい。
680(白雄31)年、天武天皇が皇后(後の持続天皇)の病気平癒を薬師如来に祈願し、それを本尊として薬師寺の建立を発願。
天皇が皇后のために寺を建てたのは日本では薬師寺が初めて。
持続天皇による薬師如来開眼供養などを経て、698(朱鳥13)年、文武天皇による、講堂阿弥陀仏開眼によって完成を見る。平城京遷都を期に、718(養老2)年、現在の場所に移った。その後も地震や台風などで伽藍の消失、再建が繰り返されてきた。法相宗大本山。
2008年12月22日|
カテゴリー:古都奈良の文化財
比叡山延暦寺
日本の世界遺産に登録されている比叡山延暦寺は『古都京都の文化財』という名称で世界遺産に登録された全17寺社のなかで、唯一、滋賀県にまたがる比叡山延暦寺。
標高848mの大比叡を中心に、周囲約100』の寺域、創建から1200年以上保ち続ける歴史、その空間と時間の規模の大きさもさることながら、圧巻は、学徒数と、ここを巣立っていった僧たちの名前だ。平安時代の全盛期には、3000人の僧侶が学び、輩出された僧は、最澄にはじまり、親鸞、日蓮、法然、栄西、道元、円仁、円珍と、高僧の名がずらり。さながら仏教界の東大といったところ。一時、最澄が空海から密教の教えを請うたことを考えれば、歴史に名を残すほとんどの高僧が延暦寺と関ったことになる。1200年後の現代、瀬戸内寂聴もこの地で学んだ。
東塔の中心、根本中堂の内部には、最澄が掲げた灯明「不滅の法灯」が、今も光を放ち続ける。その絶大な力ゆえ、鎌倉時代以降の武家社会では、たびたび権力闘争に巻き込まれ、戦渦にあった。しかし、一方で豊臣家や徳川家の庇護を受け、復興も早かった。比叡山延暦寺は、平安時代以降の日本の歴史をすっぽり包み込む偉大な宇宙なのだ。
比叡山延暦寺は参拝というよりトレッキング気分がふさわしい。
1日で東塔、西塔、横川を制覇するなら、バスかタクシーを使うしかない。ちなみに東塔へは、京都市内からはハ瀬、滋賀県側は坂本からケーブルカーとロープウェイで。
けれど、この聖なる山を満喫するなら、やはり徒歩が一番。特に、西塔と横川間の約4』は、比叡山を南北に走る尾根沿いに歩け、眼下に大原や琵琶湖を臨める。
境内のメインは、最澄が草庵を結んだ地、東塔。ここには国宝の根本中堂がある。横川は、親鸞や日蓮が修行した場所。西塔は、90日間、堂にこもって「南無阿弥陀仏」を唱えながら堂内を歩き続ける常行三昧を行う場所。ここの空気はことのほか神聖に感じる。
延暦寺にある国宝は根本中堂のみ。多くが織田信長によって焼き払われてしまったからだ。ここでは仏像や建造物より、日本の仏教史をつむいできた空気を吸いつくしすのが正しい歩き方かも。
参考になるサイト
比叡山延暦寺
2008年12月22日|
カテゴリー:古都京都の文化財
二条城
日本の世界遺産に登録されている二条城は雅な平安の王朝文化が息づく京都に、忽然と現れた江戸・徳川将軍の城。完成は、江戸幕府誕生の1603(慶長8)年。そして、1867(慶応3)年、江戸幕府が崩壊を告げる大政奉還発表の場となったことを最後に、大役を終えた。その264年間、二条城は京都に対する江戸幕府の一大PR会場のごとく、都に君臨したのだ。
征夷大将軍となることを望んだ徳川家康が二条城築城を命じてから、二の丸御殿の完成までは2年間。建築面積3300㎡、部屋敷33、畳800畳分の巨大な御殿が、あっという間に造られたわけだ。
日本の世界遺産の二条城1626(寛永3)年、後水尾天皇の二条城行幸が決まると、今度は障壁画の製作に着手。なんとその数3000面。
幕府お抱えの絵師だった狩野探幽をディレクターに、狩野派の絵師が一丸となった特大プロジェクトだった。二条城建設は、対京都、対天皇への家康のコンプレックス解消事業だったのかもしれない。
絢爛豪華な唐門を入ると、まず車寄。欄間彫刻さえ、表裏で模様が異なる凝りよう。遠侍は控えの間でありながら4室もあり、二の丸御殿で最大の広さを誇る。遠侍北側の勅使の間は、将軍が朝廷からの使者を迎えた控えの間だ。続く式台の問で、大名が老中職とあいさつ。将軍への献上品もここで渡された。いよいよ大広問。部屋数は4つ。それぞれ40畳以上あり、四の間の障壁画は狩野探幽作とされる。蘇鉄の問という名の廊下を経ると、将軍と大名の会議室ともいえる黒書院。さらに長い廊下を経て、将軍のプライベートルーム白書院へ。
見事な書院造の城でありながら、1634(寛永1111)年から229年間、将軍はコ茨も入城していない。もったいない話である。
参考になるサイト
二条城
<にじょうじょう>
徳川家康の命で、1603(慶長8)年、京都御所の守護と将軍の上洛時の居館として築城。1626(寛永3)年、後水尾天皇行幸のため、徳川家光が本丸、天守閣を完成させ現在の規模に。天皇行幸は5日間、数千人が訪れたという。1634(寛永11)年、家光が30万の大軍を率いて入城して以来229年間は数十人の留守番が世話に。その間、落雷や火災で天守閣や本丸が焼失。1884(明治17)年、二条離宮となり、9年後、京都御所桂宮御殿を本丸に移築。1939年(昭和14)年、宮内省より京都市に下賜された。広さ27万5000㎡。
2008年12月12日|
カテゴリー:古都京都の文化財
下鴨神社
日本の世界遺産である下鴨神社の祭神の一柱である玉伝授命は、上賀茂神社の祭神である賀茂別宿命の母親だ。よって下鴨神社は常に、上賀茂神社とほぼ同じ歴史を歩んできた。日本の世界遺産に登録された理由も同じ。もともとこの二つの社は切り離して考えることはできず、京都では二つ合わせて「賀茂社」なのだ。
下鴨神社の大きな楽しみどころは、アプローチ。参道は「礼の森」と呼ばれる、樹齢200~600年の樹木が約600木生い茂る原生林の中を貫いている。巨木の群れにすっぽりと包み込まれてしまえば、京
都市中とは思えないほどの静けさ。「心が洗われちゃうね」と言うとおり、凛とした雰囲気が漂っている。そして、約500mのこの森を抜け、すっかり機れを落とした気分になったところで、朱塗りの鳥居と楼門がお出迎え。なかなかうまい舞台装置なのである。
参考になるサイト
下鴨神社
下鴨神社〈しもがもじんじや〉
賀茂建角身命と玉依媛命の二桂を祭り、正しくは賀茂御姐(かもみおや)神社。上賀茂神社と同様に賀茂氏の氏神で、平安京遷都後に皇威鎮護の役目を担った。社殿の造営は678(天武6)年と伝えられるが、紀元前の崇神天皇の時代に端垣の修復が行われたという記録も残る。社殿の多くは1628(寛永5)年に造り替えられたもので、2棟が国宝、53棟が重要文化財。境内を包み込んで広がる礼の森は太古の植生として貴重で、縄文時代の祭祀土器が数多く発見されている。
2008年12月12日|
カテゴリー:古都京都の文化財
上賀茂神社
日本の世界遺産の上賀茂神社は朱塗りの鳥居と楼門以外、ほぼすべて古色を帯びた社殿。
過剰な飾り立てはいっさいなし。けれども、その歴史は絢爛な輝きに包まれている。平安京の守護神と崇められ、伊勢神宮に次ぐ社格をもち、国家の重大事には何かと頼りにされた社なのである。建ち並ぶ平安建築のうち、2棟が国宝で、41棟が重要文化財。世界遺産に登録される資質も十分に備えている。
上賀茂神社は、神社では珍しく、神職が案内してくれる「特別拝観」を実施している。国宝の本殿や権殿を間近で拝むことができ、さらに神職に説明までしてもらえるのだ。ぜひ、申し込んでみたい。そして、この神社で忘れてはならないのが、毎年5月15日に行われる一大ページェント、葵祭。平安装束に身を包んだ行列が京都の町を進む光景は、とにかく艶やかのひとことだ。
参考になるサイト
上加茂神社
2008年12月12日|
カテゴリー:古都京都の文化財
高山寺
日本の世界遺産に登録されている京都のお寺である高山寺に行けば。
「あっ、あそこを見て。明恵上人像の絵にそっくりだよ。明恵さんが木の上で瞑想していた様子が目に浮かぶね」。裏参道の最後の階段を上ると飛び込んでくる風景。
うっそうと茂る大木は、まさに国宝に描かれている上人の瞑想の図を思わせる。
日本の世界遺産の高山寺へは洛中から車で約40分。清滝川に沿って高尾、椎尾、栂尾、合わせて「三尾」と呼ばれる紅葉のメッカの最奥、栂尾に高山寺はある。自然を愛し、命あるものすべてをいとおしみ、あくまで無欲に生きながら、修行に関しては厳しく自身を律した明恵。後鳥羽上皇から下賜されたこの地で、彼は文字通り修行三昧の日々を送った。
階段を上った右手には、明恵の住居跡とされる石水院、反対側には日本最古の茶園がある。建仁寺の栄西にもらった茶の種を清滝川の対岸に撒き、明恵は大事に育てた。
「高山寺に来るときには、ぜひ予習してくるべきだね。明恵上人がどんな人かを。それがわかっていると、感動は倍増する」。
そして、もう一つ。忘れてならないのが国宝『鳥獣人物戯画』。誕生の地で見る感慨はひとしおのはず。
石水院は、鎌倉時代の貴重な建造物として国宝に指定され、世界遺産登録の大きな理由にもなった。善財童子が置かれた部屋の床板は、創建時からある屋久杉の板。築年数分の柔らか昧を帯びている。天井板は1000年前の高野槙。さらに、壁には明恵上人直筆の遺訓。「いつ重要文化財に指定さ
れてもおかしくない」というお寺の執事の言葉に、山下先生は満面の笑みを浮かべた。
そして、噂の明恵上人像を前に正座したかと思うと、「さあ、この絵にリスがいます。
どこでしょう。鳥もいます」。次に高山寺を訪れるとき、ぜひ探してみてほしい。
それにしても、石水院はやさしい。濡れ縁に座り、迫る縁を眺め、時折、鳥獣戯画にライトを当てて遊んでみたり。そうするうちに、ここが寺だということを忘れ、明恵上人の世界に溶け込んでいることに気付
かされる。国宝建造物でこんなに自由気ままにくつろげる場所は、ほかにない。
参考になるサイト
高山寺
高山寺<こうざんじ>
奈良時代末期の創建と伝わり、平安時代から神護寺の別院に。1206(建永元)年、後鳥羽上皇にこの地を与えられた明恵上人が、中興の祖として再建を果たした。高山寺の名は、後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺」という勅願を賜ったことによる。
中世以降、たびかさなる戦火や火災で焼失し、多くの伽藍を失った。
唯一、創建当初の姿で残るのが石水院。大半は、江戸時代初期に再建された。明恵上人を慕い、川端
康成や南方熊楠、白洲正子など多くの文人にも愛されている。
2008年12月11日|
カテゴリー:古都京都の文化財
西芳寺
「苔寺」の名で有名な西芳寺。ここも天龍寺同様、夢窓疎石が整備した庭園が、世界遺産に登録されたポイント。足利義満や義政などの将軍たちを夢中にさせた庭園だ。
庭園は小門の「向上関」を境に上下二股にわかれ、苔寺の名を高めたのが、黄金地を中心とした下段の回遺式庭園だ。とにかく遊歩道以外の地面を苔が覆い尽くす光景は、庭園美の極致。一方の上段は、趣をがらりと変えた日本最古の枯山水庭園。超一流の作庭家が手がけた、まったく異なる二つの庭園をもつ寺など、そうないだろう。
にもかかわらず、西芳寺の拝観には二の足を踏む人が多い。事前の申し込みと、やや高めの冥加金、さらに見学前に写経などの宗教行事に参加する必要があるためだ。
けれども、ここはお寺。宗教行事があることに何の不思議もない。拝観制限も、周辺環境と苔を守るための措置。実際に訪れ、この世のものとは思えないモスグリーンの空間に身を置けば、山下先生の言う「敷居の高さもやむなし」を実感するはずだ。
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西芳寺
西芳寺〈さいほうじ〉
苔寺の別称で広く知られる。聖徳太子の別荘跡と伝わる場所に、天平年間(729~749)、行基が法相宗の寺として創建。その後、建久年間(1190~1199)に法然によって浄土宗に宗派を変え、さらに1339(暦応2)年に夢窓疎石によって臨済宗の寺となって今に至る。疎石は同時に、寺名をそれまでの西方寺から西芳寺に改めた。周辺環境を保護するため、1977(昭和52)年より拝観には申し込みが必要とたっている。
2008年12月11日|
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天龍寺
日本の世界遺産としての天龍寺の価値は、方丈西に広がる庭園にある。幾度も焼失を繰り返した境内で、唯一、造られた当時の姿を残す庭。造った人は夢窓疎石。鎌倉期から室町期にかけて活躍し、随一の名僧にして名作庭家といわれたカリスマ的禅僧である。疎石は作庭の際、背後の嵐山や亀山を、庭の風景の一部として取り入れた。いわゆる「借景」という手法だ。日本に借景式庭園は多いが、天龍寺の庭園はそのハシリ。
確かに、方丈の広縁に腰を下ろして庭を眺めていると、どこからが庭で、どこからが山かわからなくなってくる。
禅寺の庭というと、難しく考えてしまいがちだが、ここでは第一級の山水画のような美しさに単純に感動すればよい。眺めているうちに「心地よくて眠くなっちやった」というのも、庭園に対する立派な感想だ。
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天龍寺
天龍寺<てんりゅうじ>
臨済宗天龍寺派大本山。禅僧、夢窓疎石のすすめで、足利尊氏が1339(暦応2)年に創建。後醍醐天
皇の菩提寺として、後嵯峨上皇の亀山離宮跡で造営が始まり、伽藍が整ったのは1343(康永2)年。後に150もの塔頭寺院を有し、京都五山の第一位の寺格を誇った。1864(元治元)年の禁門の変の際には長州藩の屯営となったため、放火を浴び炎上。
現在の伽藍は、明治時代以降に再建された。疎石の作庭とされる庭園は、国の史跡・特別名勝。
2008年12月 8日|
カテゴリー:古都京都の文化財
仁和寺
威圧的な二王門に、真言宗御室派総本山という格式。なんだかいかめしく感じる仁和寺だが、この寺には、とても寺院とは思えない典雅な空間がある。それが境内南西の「御殿」と呼ばれる一角だ。
確かに寝殿、白書院、黒書院などの建物が渡り廊下で結ばれた空間は、宮中を思わせる。中心となる寝殿は、大正時代に再建されてはいるか、元は京都御所から賜った由緒ある建物。かつてはここに、出家した天皇がおわしたのだ。気高い雰囲気に満ちているのも当然。「京都御所は建物の中には入れないけど、ここは見学が可能。御所の疑似体験ができる場所だよね」
そして仁和寺には、多くの人が強く鑑賞をすすめる国宝がある。それが「世界最高の仏画!」と断言する『孔雀明王像』。霊宝館で、毎年10月1~15日に公開されるので要チェック。そしてもうIつが、高さ10・7mの『薬師如来坐像』。思わず「可愛い」と言いたくなるほど小さな仏像だ。こちらは秘仏のためで非公開だが、憲明殿に同じ形をした御前立が安置されている。
端整な伽藍配置の仁和寺。二王門をくぐると広い参道が一直線に北へ伸び、朱塗りの中門越しに、本堂である国宝の金堂が見える。
仁和寺が世界遺産に登録された理由のひとつが、この金堂だ。京都御所の紫宸殿を江戸時代初期に移したもので、現存する最古の紫宸殿の遺構。桃山時代の宮殿建築を伝える貴重な建物だ。それでい
て、屋根は紫宸殿当時の檜皮から、寺院風の本瓦にリニューアル。宮殿建築と仏教建築の融合が一風変わった魅力を醸し、建築物としての価値をより一層高めている。
どこまでも優雅な境内は、できれば桜の季節に訪れたい。仁和寺名物の御室桜が盛りを迎えるのは、4月中旬から後半にかけて。
ちょうど春の名宝展が開催される時期でもあるので、桜、お宝、プチ御所がいっぺんに楽しめる。
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仁和寺
仁和寺<にんなじ>
真言宗御室派の総本山。 886 (仁和2)年、光孝天皇が造営に着手するも半ばで崩御し、子の宇多天皇が引き継いで2年後に創建。その後、宇多天皇は退位して仁和寺で出家し、「御室」と呼ばれる僧房を造営。以来、仁和寺は皇子や貴族が住職を務めるわが国初の門跡寺院となった。
境内の建物は応仁の乱で焼失後、寛永年間(1624~1644)に、徳川家光の寄進によって再建された。
現在、一帯は「御室」と呼ばれ、遅咲きの御室桜の名所としても知られる。
2008年12月 8日|
カテゴリー:古都京都の文化財
龍安寺
方丈の枯山水庭園の、15個の石。7つ、5つ、3つとかたまって置かれているためつt五三の庭」、虎の親が子と川を渡るように見えるため「虎の子渡しの庭」などと呼ばれる。「この庭は一体何なのだ」と考えたものの、結局こたえが見つからなかった人々が与えた呼び名だ。それほど、この庭は人々を惑わしてきた。
そんな石庭を最初に評価したのは、エリザベス女王や哲学者サルトルなどの外国人。石庭の名はまたたく問に知れ渡り、今では世界でもっとも有名な日本庭園だ。
「外国人にとって石庭は、一種の抽象芸術のように映ったんだろうね。そして外国人が褒めるのを見て、日本人もはじめてこの庭の良さに気づいたんだ。ディスカバー・ジャパンは龍安寺から始まったのかもしれないよ」と、そこで足元に目を向けると、丈の広縁の縁がすっかり磨り減って丸みを帯びている。
「見てごらん。この丸みが、みんながここに座っていろいろ考えた歴史を物語っているよね」
龍安寺は、方丈の広縁に腰をおろして黙考する時間を勘定に入れて訪れたい。
龍安寺を訪れる人は、たいていは石庭を見にやってくる。けれども、そんな人々を驚かすのが、山門の先に広がる、鏡容池を中心にした広大な回遊庭園。四季折々の花が自慢のこの庭園は、近代までは、石庭よりも有名で、多くの人を集めた。桜にはうるさい豊臣秀吉も境内で盛大な花見の宴を開き、「鳥獣を殺すな。木々を切るな」との高札を立てたほどお気に入りだったという。
佗び寂びの精神に基づく禅寺の簡素な庭と、四季の花々に彩られた華やかな庭。二つの異なる庭園を持つところが、龍安寺の大きな魅力でもある。
「石庭だけ見て帰るなんて、そんなにもったいないことはできないよね」と、山下先生は石庭の見学を終えると、境内を散策。お寺が抱える専属の植木職人が丹精込めて手入れをしているだけあって、回遊庭園の美しさは格別。謎の石庭を眺めて凝った頭も、心なしかほぐれていくようだ。
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龍安寺
龍安寺<りょうあんじ>
臨済宗妙心寺派。 1450 (宝徳2)年、平安時代の貴族徳大寺家の山荘を、室町幕府の管領だった細川勝元が譲り受け、妙心寺の義天を開山に招き創建。応仁の乱で全焼し、勝元の実子改元が復興に着手。その後、細川家の菩提寺として、豊臣秀吉や徳川家などから庇護を受けた。有名な石庭は、499(明応8)年に方丈が建立された際の造営といわれるが、詳細は不明。1797(寛改9)年、方丈などを焼失し、のちに塔頭の西源院から方丈を移築。
2008年12月 8日|
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銀閣寺
日本の世界遺産の銀閣寺こと観音殿はただいま(2008.12.01現在)工事中です。
平成20年2月に始まった屋根の葺き替えと耐震工事は2年間続く予定。銀閣寺の目玉、観音殿が見られないのは残念だが、工事中のカバーの隙間から柱や内部の広さなどを垣間見えることができるのはありがたい。
銀閣が見られないことを差し引いても、芸術家岡本太郎をあっといわせた向月台と銀沙灘、書院造の端を切った東求堂は見る価値大。工事中で人が少ない分、寺の良さを体験できる絶好のチャンスかもしれない。
応仁の乱の原因を作ったのは自分でありながら、戦火や政治に疲れた足利義政が、書を読み、歌を詠み、茶の湯を楽しみ、月を愛で、庭を観賞するために隠れ住んだ場所。それが東山殿たった。「ここはまさに、義政が引きこもりの場として建てた住居だったんだよね」と山ド先生。それを顕著に表すのが東求堂(通常非公開)にある四畳半の書斎。
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銀閣寺
銀閣寺<ぎんかくじ>
東山三十六峰のひとつ、月待山にある銀閣寺は、室町幕府第ハ代将軍足利義政の山荘、東山殿として、応仁の乱終戦5年後の1482(文明14)年に造営が始まった。義政の書斎があった東求堂は4年後、観音殿(銀閣)は7年後、12のすべての殿舎が完成したのは着工から8年後。義政は完成直前に逝去し、義政の遺命で禅宗寺院慈照寺となる。銀沙灘の造営は江戸時代に入ってから。
銀閣寺と呼ばれるようになったのも江戸時代。寺号は東山慈照寺。
2008年12月 8日|
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金閣寺
日本の世界遺産に登録されている金閣寺。まばゆい金、衣笠山をバックに悠然と輝く金閣は、室町時代の最盛期を築いた足利義満が、出家後に建てた山荘の今の姿だ。
世界が日本を「黄金の国ジパング」と叫び、日本の金を羨望していた時代。仏教観では、西方浄土=金のイメージで、人々は金を手にいれ、身につけ、浄土にいけるよう願った。対明貿易で巨万の富を得、中国に「日本国王」と呼ばせた義満は、自身の象徴として、黄金の館を建てたのだった。
時は経て1950(昭和25)年。金閣寺は放火により全焼してしまう。けれど5年後、10cm角の金箔10万枚、計2キロの金を使って再建され、7年後、金箔20万枚、計20キロの金で補修された。総工費7億円。へいせい15年、屋根の補修を終え、さらに一部の金箔が張り替えられ、古色とは無縁の凛とした姿が整った。
建物の内部は三層に分かれている。初層は公家風の寝殿造り「法水院」、一層は「潮音洞」という名の鎌倉時代の書院造風、三層は禅宗様仏堂風の造りの「究竟頂」。異なる三つの様式を組み合わせた建築は、当時としても斬新だったという。
昭和の再建で蘇った金閣は、創建時の姿に近いといわれる。舎利殿(金閣)の三層「究竟頂」の内部は総金箔張り、床は漆黒の漆塗り。二層の内部や、上層階の縁の床は黒漆塗りで、屋根の軒下も金。あまたのものが金に反射し、黒漆に写りこむ。鏡湖池にさえ金閣は写り、太陽が池に反射して外壁や軒を照らし、金閣は一層輝きを増す。屋根には金の鳳凰。建物だけでなく庭園も華やか。数々の小島や奇岩を配した鏡湖池や衣笠山を借景とする庭園は、極楽浄土をイメージした浄土成庭園なのだ。
「本当にゴージャスな人だよなあ」義満のゴージャスぶりは、それだけではない。中国から膨大な量の絵画を賀いつけ、1408(応永15)年に後小松天皇を迎えて閣いた宴は、なんと21日間に及んだ。舟遊びに蹴鞠、そして連歌に猿楽能……。こうして華やかな北山文化を開花させた義満の功績も忘れてはならない。
参考になるサイト
金閣寺【世界遺産 日本】
金閣寺【京都ガイド】
金閣寺【世界遺産】
金閣寺(きんかくじ)
1397(応永4)年、室町幕府、第3代将軍、足利義満の住居、北山殿として造営される。創建時、義満は将軍職を離れていたが、実験は握り続け、舎利殿(金閣)は、政治や外交の舞台となった。舎利殿の周囲には2階建ての天鏡閣と呼ばれる会所や寝殿など多くの建造物があったが、義満の死後、多くが解体され、洛中の寺々に移築された。応仁の乱の際、移築された建物のすべては焼失したが、金閣だけが残った。義満の死後、夢窓国師を開山とし臨済宗祖国寺派の北山鹿苑寺となる。
2008年12月 8日|
カテゴリー:古都京都の文化財
清水寺
日本の世界遺産に登録されている清水寺は「枕草子」や「源氏物語」にも参詣人が集う様子が描かれているほど、古くから信仰を集めている場所です。
この清水寺が人を集めたのは、本尊がすべての人を救済してくれる慈悲深い観音様だからだ。江戸時代、多くの人が願掛けをしながら本堂の「清水の舞台」から飛び降りたのも、観音様になら命を託せると思ったからだろう。
懸造といわれる清水の舞台は、上から景色を眺めても、真下から見上げても「すごい!」のひとこと、下からの眺めがお気に入りの方も多く舞台を支える支柱を見上げながら「釘を使わずにたてたんだもんなぁ。世界遺産になるのも納得できる建物だよ」と感嘆しきりになる。
「京都の世界遺産を楽しむためには、特別公開情報のチェックはぜったいに欠かせないよね」。今回、
それは清水寺でも行われる。まずは本尊の御開帳だ。
清水寺の本堂は内々陣、内陣、外陣(礼堂)にわかれ、本尊の十一面千手観音は、内々陣須弥壇上
の厨子の中にいる。この須弥壇上には本尊の従者である、総勢30体もの巻属の仏像も並ぶ。
本尊を安置した厨子は33年に一度しか開かれず、通常でいけば次回の開帳は2033年。ところが、2008年は西国三十三ヵ所巡礼中興の祖、花山法皇の没後千年目。
そこでこれを記念し、3年間にわたり、33力寺すべてで順次本尊のご開帳を行うことになったのだ。
清水寺での御開帳は2008年9月1日~11月30日と、2009年3月1日~5月31日の2回。これを見逃すと次は……なので、迷わず駆けつけよう。もう一つ、境内塔頭の成就院の庭園も、11月17日~12月7日にわたって昼と夜の公開が行われる。月光を浴びた庭園は「月の庭」と呼ばれるほどの美しさ。こちらもぜひ、見逃さないように。
清水坂に二年坂、三年坂に茶わん坂。高台の清水寺へ向かう坂の途中には、みやげ物店や甘味処が
軒を並べ、平日でも多くの老若男女が楽しげに行き交う。そんな光景を眺める山下先生の顔も楽しげ。
「清水寺はアプローチも楽しみの一つだよね。ここほど“門前の賑わい”を感じさせてくれるところ、京都でも少ないんじゃないかな」
清水坂をのぽった場所では、平成15年に解体修理を終えた朱色の仁王門を背に、修学旅行生か記念撮影。昔も今も、このお寺の観光寺院としての顔は変わらない。
本堂の舞台に続いて奥の院を見学したあと、通常の拝観順路に従うと、子安の塔を経由してから音羽の滝の前、舞台の下にたどり着く。けれど先生はそのルートを取らず、本堂横の階段をおりていく。
「ほら、ここからだと、舞台を支える脚柱がよく見えるよ」順路より。マイルートク。そんな好き勝手な楽しみ方を、観音様もきっと許してくれるはずだ。
2008年12月 8日|
カテゴリー:古都京都の文化財
東寺
京都駅のホームに滑り込んだ新幹線の車窓からも間じかに見える日本の世界遺産に登録されている東寺の五重塔。
東寺は平安京造営時に、都を守るための国立の寺として、平安京正門である羅城門横に築かれた。今も寺域や伽藍の配置が当時とほとんど変わらず、平安京時代の様子を伝えてくれるところが、世界遺産に登録された大きなポイントだ。高さ約55mの五重塔も、日本に現存する最高の五重塔として、遺産価値は大だ。
東寺はのちに、弘法大使空海によって、密教の根本道場に生まれ変わった。それを象徴するのが、講堂の内部だ。
「密教の宇宙観と教えを表す漫茶羅は、普通の平面図だけど、空海はそれを仏像でやっちゃたんだよね」と感嘆する、講堂内の「立体漫茶羅」。五智如来、五菩薩、五大明王、四天王、梵天、帝釈天の計21体の仏像が、大日如来を中心にしてズラリと並ぶ壮大な空間だ。
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東寺
日本の世界遺産に登録されているこの東寺の中で15体が国宝に登録されている。
日本の世界遺産の東寺内の国宝
教王護国寺金堂
教王護国寺五重塔
教王護国寺大師堂(御影堂)
教王護国寺蓮花門
五大明王像
梵天坐像・帝釈天半跏像
五大菩薩坐像(中尊像を除く)
四天王立像
兜跋毘沙門天立像
僧形八幡神坐像・女神坐像
不動明王坐像
弘法大師坐像
両界漫茶羅図(西院本)
五大尊像
十二天像
真言七祖像
「東寺は、京都駅から近すぎるのか、見所の多い洛中から見ると京都駅の裏側だからか、いつも観光客がすくないんだ。隠れた穴場スポットだよね。」
確かに、大通りに囲まれているにもかかわらず、重厚な塀の内側はいつも静か。建造物や寺宝と、存分に向き合うことができる。
この静かな境内が、一転して活況を見せるのが、毎月21日の弘方市だ。この日は境内に1000~1200軒の露店が並び、なんとも賑やか。静けさと騒がしさがある東寺。
2008年12月 7日|
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西本願寺
京の人々が親しみを込めて「お西さん」と呼ぶ日本の世界遺産の西本願寺。ここは、桃山時代から江戸時代初期にかけての建造物が価値を認められて世界遺産になったほど、当時の空気が濃密に感じられる寺だ。
まず目を見張るのが、並び建つ御影堂と阿弥陀堂。どちらも、1000人以上が人柊るという巨大さだ。このうち御影堂は平成11年より続く「平成の大修理」が、平成21年3月に終了予定。西本願寺でいちばん
重要な建物だけに、完成時にはさぞや盛大な式典が行われることだろう。
そして、秀吉の伏見城の遺構とされる、きらびやかな唐門。同じく秀吉の聚楽第から移築したと伝わる、奇妙な建築「飛雲閣」。
さらに書院を満たす、狩野派による絢爛豪華な金碧障壁画の数々。親しみやすい「お西さん」の影には、「大教団の底力を感じさせるね」と、山下先生をうならせる見どころが目白押しなのだ。
参考になるサイト
西本願寺
西本願寺<にしほんがんじ>
浄土真宗本願寺派の本山。宗祖親鸞の死後、東山に建立された大谷廟堂を起源とする。その後、山科、大坂石山、紀伊鷺森を転々とし、1591(天正19)年に、豊臣秀吉から堀川七条の地を寄進され、現在に至る。1602(慶長7)年、徳川家康が七条烏丸の地に本願寺を別立して東西に分かれて以降、西本願寺と呼ばれる。龍谷大学などの宗門校を多くもつ。
日本の世界遺産の西本願寺内の国宝
本願寺北能舞台
本願寺唐門
本願寺飛雲閣
本願寺書院
本願寺黒書院及び伝廊
親鸞聖人像
阿弥陀教註
観無量寿教註
三十六人家集
熊野懐紙
西本願寺境内の東南隅。土塀に囲まれ、普段は門扉を閉ざしたこの一角には、滴翠園と呼ばれる庭園がある。その中心に建つ三層の楼閣「飛雲閣」は、山下先生もお気に入りの建物。秀吉が京都に建てた邸宅、聚楽第の遺構だといわれるが、確証はない。
さらに、いつ西本願寺に移築されたかも謎の建築である。
鹿苑寺の金閣、慈照寺の銀閣とならんで「京の三閣」といわれる飛雲閣だが、山下先生いわくTンンメトリーをとことん嫌っているね。でも眺めているうちに、。破調の美・ともいうべき不思議な美しさを感じるんだよ」。
飛雲間は通常非公開だが、毎年4月13~15日の春の法要、5月20~21日の宗祖降誕会などでは公開される。見学希望の行列に並んででも、見る価値のある建物だ。また、西本願寺の宿坊である聞法会館の宿泊プランには、通常非公開の場所を拝観できる「国宝拝観プラン」が登場することもある。ぜ
ひ利用したい。
本願寺の門主が賓客と対座し、あるいはプライベートな時間を過ごした書院。山下先生が美術史家として「ここはぜひとも見学すべきだよ」と、強くすすめる場所だ。
とにかくどの部屋をのぞいても、狩野派の絢爛な障壁画だらけ。精緻な欄干彫刻ともども、めまいがしそうな豪華さなのである。
天井画の中に猫を紛れ込ませたり、雁が隣の間に描かれた月を目指して飛んでいるかのように見せるなど、絵師の心憎い演出も満載。毎年4月13~15日に行われる春の法要では特別に公開されるので、ここはぜひ見学をして、匠の技と遊び心に触れたい。
2008年12月 7日|
カテゴリー:古都京都の文化財
宇治上神社
「神様がいるよ!」と思わず叫びたくなる日本の世界遺産の宇池上神社。京都で世界遺産に登録された17の社寺の中で、敷地面積がもっとも小さく、境内の主な建物は拝殿と本殿のみ。宇治名山の一つである仏徳山の裾野で、濃い緑に埋もれるように小ぢんまりと鎮座する。駐車場もないため、観光バスなどで訪れる団体客もいない境内は静か。
門をくぐるとそこにあるのは堂々とした国宝の拝殿。鎌倉時代前期に建造された拝殿は、平安時代の住宅様式を取り入れた寝殿造風で、当時の住宅建築の姿を敦えてくれる価値ある建物だ。宇治離宮の遺構と伝えられているだけあって、槌破風と呼ばれる屋根の優美なラインにはおもわずひと目ぽれ。
拝殿に重なるように、背後に本殿が建つ。三つの内殿が覆屋という建物で囲まれた特異な構造だが、この内股こそが、世界遺産登録の大きなポイントとなった、日本最古の神社建築なのである。
これだけ由緒がありながら、「世界遺産登録されているの?はあ、それはそれは、というおおらかさが感じられるね」。国宝の本殿を間近で拝むことのできる社には、とっても親しみやすい神様が住んでいるようだ。
宇治上神社(うじかみじんじゃ)
兔道雅朗子、応神天皇、仁徳天皇の3柱を祭る。神社としての創建年は不詳だが、平安時代の平等院建立後にその鎮守社となり、藤原氏の庇護のもとで尊拝を集めた。3棟の内殿が一つの覆屋で覆われた本殿は、平安時代中期の1060年代の健立で、現存する神社本殿としては最古の建築。鎌倉時代建造の拝殿も、拝殿としては同じく最古のものである。
参考になるサイト
宇池上神社
日本の世界遺産の宇治上神社内の国宝リスト
宇治上神社本殿
宇治上神社拝殿
2008年12月 7日|
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平等院
多くの方が見とれる、日本の世界遺産の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像。平安時代を代表する名仏師、定朝の作品の中で、唯一残るといわれる貴重なものだ。
温和な表情にふくよかな体は定朝様式といわれ、のちの仏像彫刻家がこぞって真似をしたスタイル。
まわりの雲中供養菩薩たちも、もちろん定朝一門の作だ。
平安時代、仏教がすたれて暗黒の世に突入するという「末法思想」が、一大ブームを巻き起こした。人々が疫病や飢饉の流行におびえ、極楽浄土への往生を切に願った時代である。
藤原頼通が平等院を創建したのが、まさにこの末法初年。本尊を阿弥陀如来としたのは、人々の願いをかなえ、浄土世界へ導いてくれる仏様だからである。確かにそのまなざしは、「わたしが救ってあげるから心配はいらないよ」と語りかけるかのように優しい。
日本一の権力者でさえも恐れた末法の世。晩年の頼通は中堂にこもり、命乞いをするかのごとく念仏三昧の日々を送った。
この阿弥陀如来は、そんな頼通の切なる願いを受け止めていた仏さまなのである。ありがたいわけがない。
参考になるサイト
平等院
平等院<びょうどういん>
平安時代の権力者、藤原道長の別荘を、その子頼通が1052(永承7)年に寺に改め創建。中世以降の戦火で多くの伽藍を失うが、阿弥陀堂のみが創建当時の姿をのこす。翼廊が左右に伸びた阿弥陀堂は、伝説の鳥である鳳凰に姿が似ているため、江戸時代以降「鳳凰堂」と呼ばれるように。鳳凰堂中央の中堂には、定朝作の阿弥陀如来坐像を安置する。鳳凰堂の前面に池を配した庭園には西方浄土を表したもので、後の浄土庭園の原型となった。
阿字他に架かる朱塗りの橋をわたり、鳳凰堂の内部へ。ここに入るには、別料金が必要だが、国宝の本尊を間近で拝めることのできる寺院は多くないので、ぜひ見学すべき。もちろん頼通の時代には、一般大衆が入ることなど夢のまた夢だった空間。現代に生きるわたしたちに許された特権だ。
鳳凰堂を外から眺めるなら、玉砂利を踏みしめながら阿字他の対岸へ。「しゃがんで見るといいですよ」とアドバイスをくれたのは、山下先生と親交の深い神居住職。
平安時代の対岸はもっと低い位置にあったと思われるためだ。なるほど、これだと10円玉に描かれた端整な姿が堪能できる。さらに、鳳凰堂内の阿弥陀如来坐像が浮き上がって見えるから不思議だ。
平等院を訪れるには、朝か夕、迷うところ。開門一番に訪れれば、朝の住んだ空気の中、中堂正面の丸窓を通して、金色に輝く阿弥陀如来の顔が拝めるだろう。夕刻なら、夕日を浴びてシルエットになった鳳凰の幻想的な姿が見上げられるはずだ。
そして、忘れてはならないのが「鳳翔館ミュージアム」。ハイテク和尚と呼ばれる神居住職の力作だ。近未来に迷い込んだかのような館内には、デジタル映像による創建当時の堂内再現、光ファイバーを多用した照明など、最新技術が満載。「過去だけにこだわらず、現代の技術も使って、平等院の姿を伝え続けたいんです」と住職。
歴史や伝統を重んじる宗教の世界で、訪れる人を楽しませることを考えた数々の最新施設は、さながら「仏教のユニバーサルスタジオ」のよう。何よりステキなのは、住職自身がそれを大いに楽しんでいるところなのだ。
日本の世界遺産の平等院内の国宝リスト
平等院鳳凰堂
阿弥陀如来坐像
雲中供養菩薩像
鳳凰堂中堂壁扉画
天蓋
金銅鳳凰
梵鐘
2008年12月 5日|
カテゴリー:古都京都の文化財

